
時間が止まった不思議な街、ポンペイとは?
皆さん、こんにちは! 今回は、イタリアの古代ローマ時代の息吹がそのまま残る不思議な街、
ポンペイについてご紹介します。
ここは2000年前の古代ローマの街が、ずっと残っている場所です。
なぜそんなことが起きたのか?
それは、西暦79年に起きたヴェスヴィオ火山の大噴火が理由です。
火山の噴火と大量の火山灰によって街は一瞬にして姿を消しました。
封じ込められた日常と文化
今、ポンペイを歩くと…
✔2000年前の石畳の道がそのまま
✔当時の家やお店の壁画が消えずに残る
✔市場、パン屋、劇場、居酒屋までそのまま発掘
火山灰が降り積もり、建物も道も当時の暮らしの痕跡も、まるで「未来へ向けたタイムカプセル」のように
保存されました。
今回は画面の向こうに広がるポンペイの世界へ、想像の翼を広げて出発です!
活気溢れるローマの地方都市、ポンペイ
活気溢れるローマの地方都市
ポンペイと聞くと「火山噴火で埋もれた恐怖の街」、というイメージが強いかもしれません。
でも西暦79年当時、ポンペイは田舎町ではなくローマ帝国の重要な商業都市のひとつでした。
・人口は約1万人〜2万人と推定
・港町として港湾や道路が整備され、近隣地域との交易や文化交流が盛んで、豊かな農業地帯に囲まれていた
・「貴族の別荘地」としても人気で、裕福なローマ人が暮らしていた
・娯楽施設や商業施設が充実した活気のある都市で、商人や職人、奴隷も含めた幅広い人々が生活していました
「ローマ帝国の縮図」のような街だった
ローマ帝国の知恵が詰まった街
ポンペイは、ローマ帝国の典型的な都市計画に基づいて作られた街でした。そのため、現代の街と比べても
驚くほど整然とした造りになっていました。
フォロ(広場)
政治・商業・宗教の中心地で、神殿や市場、裁判所が集まり、街の心臓部として機能していた。
石畳の道路
幅の広い大通りと、小さな路地が碁盤目状に整備されていた。
歩行者専用の横断歩道もあり、まるで現代の都市のようだった。
上下水道の整備
公共の水道システムがあり、裕福な家には専用の水道が引かれていた。
公共の噴水や水道橋があり飲料水も確保されていた。
【ポンペイのドローン映像】
VIRUS Travel様の動画を共有させていただきました。ありがとうございます!
この街が「消えた日」
西暦79年8月24日——運命の日の朝
その日、ポンペイの朝はいつもと変わらず穏やかに始まりました。
☀️パン屋では、焼きたてのパンの香りが広がります
🛒市場では、新鮮な魚や果物が並び、商人たちの声を張り上げます
♨️公衆浴場では、人々がゆったりと湯に浸かりながら世間話
しかし、ポンペイの人々は知らなかったのです。
この日が、彼らにとって最後の1日になることを——。
昼過ぎ、突然の爆発——ヴェスヴィオ火山の噴火
午後1時頃、ポンペイの北にそびえるヴェスヴィオ火山が突然、大音響とともに噴火しました。
・巨大な爆発音とともに、山頂から黒煙が噴き上がる
・火山灰と軽石が空高く上昇、太陽を覆い隠す
・昼なのに夜のように暗くなり、雷のような閃光が走る
歴史家プルニウスによると、
「まるで巨大なカサマツの木が、煙になって天に伸びていたようだった」
と記録されています。
夕方——火山灰と軽石の雨が降り注ぐ
午後3時〜6時、噴火はさらに激しさを増しました。
当時のローマ人にとって、火山噴火は未知の現象でした。
この時点でも、まだ多くの人々は「少し離れていれば大丈夫だろう」と考えていました。
しかし、それは間違いでした。
真の恐怖は、これからだったのです。
真夜中——地鳴りとともに、火砕流が街を襲う
翌日の午前0時過ぎ、ヴェスヴィオ火山はこれまでで最も激しい噴火を起こしました。
・火砕流(時速100km以上の超高温のガスと火山灰の混合物)が発生
・瞬く間に、ポンペイの街まで流れ込み、すべてをのみ込む
・人々が息をする間もなく高温のガスが襲いかかる
これは、「熱風による瞬間死」だったと考えられています。
午前6時、街は完全に灰の下に埋もれ、ポンペイは、2000年以上もの間、歴史の中に閉じ込められることに
なりました。
ポンペイの人々はどうなったのか?——犠牲者と生き延びた人々
ヴェスヴィオ火山の大噴火によって、ポンペイの住民約2000人が犠牲になったと考えられています。
ポンペイには当時1〜2万人が暮らしていたとされており、多くの人々は噴火前や噴火の初期段階で避難し、生き延びた可能性が高いです。
しかし、ポンペイは完全に埋もれたため、街の再建は不可能でした。
そのため人々は新しい土地で生活することを選んだと考えられています。
歴史の中に埋もれていた街が蘇るまで
このようにポンペイはヴェスヴィオ火山の噴火によって灰の下に消えた都市でした。
その後の約1700年間、人々の記憶から完全に消えてしまいます。
では、どのようにしてポンペイは再発見されたのでしょうか。
きっかけは「水道工事」だった?
ポンペイがあるナポリ周辺では、長い間「謎の遺跡」が発見されていました。
16世紀(約1500年代)
・ナポリ王国が水道工事をしていた際、地下から大理石の壁や柱が発見される。
・しかし、工事関係者たちは「古い建物の残骸」程度に考えていました。。
「ポンペイ再発見の始まり」
・その後、発掘された遺物に刻まれた文字のなかに「ポンペイ」というものが含まれていた。
・これが「消えた都市ポンペイの存在を示す最初の証拠」となった。
しかし、この時点では本格的な発掘に至りませんでした。
本格的な発掘が始まったのは「王の好奇心」から
ポンペイが本格的に発掘されるのは、18世紀(約1700年代)になってからのこと。
きっかけは「歴史にロマンを抱いた一人の王」でした。
1738年、ナポリ王「カール3世」が大規模な発掘を命じる!
当時のナポリ王カール3世は、芸術や古代遺跡に興味を持っていました。彼はナポリ近郊で「ヘルクラネウム」という古代都市の遺跡を発掘していたのですが、さらに別の古代都市があるかもしれないと考えていました。
1748年、ついにポンペイが発掘される!
・カール3世の命令で、ヴェスヴィオ火山周辺の発掘が進められた。
・すると、地下から信じられないほど良好な状態の壁画や建物が発見される!
・「これは完全な都市遺跡だ!」と考えた研究者たちが、ついにポンペイの発掘を本格化させました。
この頃から、「火山灰の下で時が止まった都市」が世界的に知られるようになっていきます。
19世紀、ポンペイの「人々の姿」が現れる
18世紀の発掘では、主に建物や壁画の発掘が進められていました。
そして19世紀になると、さらに驚くべき発見があります。
1860年、考古学者ジュゼッペ・フィオレッリが新しい手法を導入!
・遺跡を発掘する中で、地中に「空洞」があることに気づきました。
・彼は、この空洞に石膏を流し込むという画期的な方法を考案した。
すると、そこには…
・火砕流によって命を落とした人々の姿が、そのまま残っていた!
・倒れた姿、身を寄せ合った親子、逃げ遅れた犬の姿もが再現された。
これにより、ポンペイが単なる「古代都市の遺跡」ではなく、
2000年前の人々の「最後の瞬間」を記録した場所であることが判明したのです。

古代ローマの生きた博物館
生活の一コマが蘇る
遺跡内を歩けば、かつての市民がどのように朝食をとり、日常の買い物を楽しんでいたのかが感じられます。
ローマならではの感動や美意識を垣間見ることができます。
芸術と技術の結晶
ポンペイの壁画、彫刻、モザイクは、古代の芸術家たちの情熱と技術の粋を今に伝えています。
当時を伝える貴重な資料として、訪れる人々に多くの学びと驚きを提供しています。

大劇場
ここでは、5000人の観客が演劇や音楽を楽しんでいました。

公衆浴場(テルマエ)
冷水浴・温水浴・サウナがあったローマ版スパ。市民が交流する社交の場としても機能していました。

ユニークな落書き——2000年前のローマ人の「つぶやき」
ポンペイは当時の暮らしがリアルに残る遺跡です。
その中でも、ひときわユニークな遺産が「落書き」です。
広告、恋の告白、ジョーク、悪口、政治のスローガンなど、現代のSNSを思わせるような落書きが
無数に発見されています。
ポンペイの落書きを読むと、
「ローマ人もたち私と同じように笑い、恋をし、愚痴をこぼしていたんだな」
と思わず親近感が湧いてきます。では実際にどんな落書きが残っているのか、いくつかご紹介しましょう!
1. 愛の告白 & 恋の悩み
古代ローマ人も、恋愛には悩んでいたようです。
💌 「私はヴィーナス(愛の女神)よりも、隣に住む女性が好きだ!」(居酒屋の壁)
💔 「この恋はうまくいかない気がする…」(市場の柱)
💞 「セクンディスよ、君を憎んでなどいない。一応愛している!」(街角の壁)
現代でいう「SNSで恋のつぶやきを」感覚に近いですね。
2.政治的なメッセージ
ポンペイでは選挙活動も積極的に行われていました。
そのため、落書きの中には政治家を応援するスローガンや、政治への不満が書かれたものもあります。
📢 「カイウスを執政官に!彼こそがこの街を良くする!」(フォロの近く)
😠 「選挙なんて茶番だ。結局、金持ちが勝つ。」(酒場の壁)
現代でも街のポスターやSNSで政治の話が飛び交うことを考えると、
2000年前も政治への関心は高かったことがよくわかります。
🤣 3. 下ネタ
ポンペイの落書きの中には、大人向けのジョークもたくさん残っています。
😂 「あなたの妻は、オレの女だったぜ!」(娼館の壁)
🍆 「ここで最高の時間を過ごした。試してみろ!」(公衆浴場の壁)
😏 「このトイレは最高だ。ゆっくりしていけ!」(公衆トイレの壁)
特に娼館(ルピナリウム)の壁には、
サービスの内容やお店の評判、さらには観客同士の競争意識まで書き残されていました。
落書きの内容は、2000年経っても変わらない人間の本質を感じさせますね。
4.商人の広告と自慢
商売人たちは、壁を広告として利用していました。
今でいう「張り紙広告」や「口コミレビュー」のような感覚です。
📢 「このパン屋は最高だ!クロードゥのパンを食べたら、もう他では食べられないぞ!」(パン屋の壁)
💰 「俺は一晩で100デナリウス(銀貨)を稼いだぜ!」(バイキング博場の壁)
🍷 「ここでは最高のワインが飲める!」(居酒屋の壁)
現代の飲食店レビューとほぼ同じノリですね。
ローマ人も、「良い店の情報は共有したい!」と思っていたのかもしれません。
⚔️ 5. グラディエーター(剣闘士)の人気投票
ポンペイには円形闘技場(アムフィテアトルム)があり、剣闘士(グラディエーター)の戦いが大人気でした。
そのため、落書きにも「推しの剣闘士」を応援するメッセージが残っています。
💪 「フラウクスは最強の剣闘士だ!10連勝したぞ!」(闘技場の壁)
⚔️ 「クセノファネスは負け犬だ!次は勝てるのか?」(宿屋の壁)
現代の「スポーツ選手のファンコミュニティ」と同じ感覚ですね。
ポンペイの人々は剣闘士の試合を見て盛り上がり、お気に入りの選手を応援する文化を持っていました。
まとめ:「運命の日は本当に8月24日だったのか?」——語り尽くせない謎の遺跡
ポンペイはまだ語り尽くされていない
ポンペイはすでに「発掘が終わった遺跡」ではありません。
今も新たな発見が続く「未完の遺跡」なのです。火山灰に埋もれたこの街の発掘は、はじまってから
現在までに街の3分の2しか掘り起こされていません。
運命の日は8月24日ではなかった?
長年、西暦79年の8月24日がポンペイが消えた日だと考えられてきました。
これは、ローマの歴史家プルニウス(小プリニウス)が記した手紙の内容がもとになっています
しかし、最近の研究で「実は別の日だったのでは?」という説が注目しています。
その根拠の一つが、ポンペイの落書きなのです。
その落書きには、「10月17日」と解釈できる日付が記されており、これが噴火直前のものである
可能性が指摘されています。
この発見により、噴火の時期が実際には秋であった可能性がでてきました。
✔ 落書きは、炭で書かれており、一時的なメモだと推測される
✔ この落書きが「噴火後」に書ける可能性は低い
✔ つまり、ポンペイが最も10月17日までは存在していた証拠になる
さらに、遺跡からは秋に収穫される果物の痕跡や、厚手の衣服を着た犠牲者が発掘されています。
では、なぜ「8月24日」とされてきたのか?
ここで不思議なのは、なぜ2000年以上も「8月24日」が噴火の日と信じられてきたのか?
ローマ時代の歴史家小プリニウスは噴火当時、叔父である大プリニウスとともにナポリ国境でこの
大災害を目撃しました
これから長年定説とされ続けてきた「8月24日」は、その後の誤写による可能性があります。
ポンペイは過去の遺跡でありながら、今も新たな発見が続いている「生きた歴史」です。
歴史は確定ではなく、常に更新され続けるものであることを教えてくれます。
そして、私たちの今の世界も、いつか「発掘される過去」になるかもしれません。
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ポンペイの記事はお楽しみいただけましたか?
次回はどんな未知の景色が広がるのでしょうか。
次なる「行ったつもりの旅」も、ぜひご一緒に!
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