
「縄文時代って、どんなイメージ?」狩りをして、土器を作って、毛皮を着た人々が「ウホウホ」と言ってる……?
いやいや、原始的な暮らしなんて思ったら大間違い。三内丸山遺跡の発掘調査によると、縄文人は私たちの想像よりも裕福な生活をしていた可能性が高いんです。
彼らは、約5900年前にはすでに「都会暮らし」をしていました。 青森の三内丸山遺跡は縄文時代において「日本最大級の集落」として栄えていたのです。
高層ビルのかわりに縄文の空にそびえ立つのは巨大な謎の6本柱。黒曜石を介した広範囲の取引
ネットワーク。自然と共生した超サステナブルな暮らし。現代人が考えるよりも先進的だったと思われる
縄文文化の奥深さを感じる遺跡です。
実はすごい場所だった⁉︎
青森県にある三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、縄時代(約5900〜4200年前)の日本最大級の
集落跡で世界遺産に指定されています。
・住居、倉庫、巨大建築…発掘からわかる当時の建築技術
・食料貯蔵や黒曜石の取引易…想像以上に発展した経済活動
・そして、謎に包まれた「巨大な6本柱」の存在
ただの原点生活ではなく、「文化と技術が発達した縄文都市」だったのです。
今回は、そんな三内丸山遺跡を「行ってみたつもり」で楽しみながら、じっくり紹介していきます!
縄文版東京
では、なぜ数ある縄文遺跡の中から三内丸山遺跡なのか?
実は…この遺跡、規模がデカすぎるんです。
三内丸山遺跡は、縄文時代の遺跡の中でも最大規模を誇ります。遺跡全体の広さは約40ヘクタールで
これは東京ドーム約9個分に相当します。他の縄文時代の遺跡と比較すると、その規模の大きさが際立ちます。
例えば、同じ青森県内にある是川遺跡も重要な縄文遺跡ですが、三内丸山遺跡ほどの範囲はありません。
また、三内丸山遺跡では、直径約1メートルの木柱を用いた6本柱の巨大建造物跡が発見されており、これは他の縄文遺跡では見られない特徴的な構造物です。
これを知った瞬間、私の脳内でこんな言葉がよぎました。
「縄文時代に東京があった⁉︎」
さらに、この遺跡には「謎」が多いでんす。
これは「行ってきたつもりの旅」にぴったりのテーマじゃないか⁉︎
こうして、私は縄文の時代へタイムスリップすることにしました。
古代の1日、始まりはじまり!
朝の目覚めは縄文スタイル
太陽が昇るとともに、縄文人の1日がスタート!
寝床は竪穴式住居。 床を掘って作られた半地下式の家で、冬は暖かい夏は涼しいという天然のエコハウスです。
朝ごはんは、昨夜残りのドングリ粥と燻製魚。
「ドングリ⁉︎」と思われるかもしれないが、アク抜きをして食べれば意外とおいしい(らしい)。
この頃の縄文人は、ドングリやクリ、クルミを森に植えて計画的に収穫していたという研究結果もあります。
…つまり、ただの狩猟採集じゃなくて「森の管理人」だったわけです!


午前:狩りに行くか、木の実を拾うか…?
縄文人の仕事は、大きく2つに分かれます。
1.狩猟・漁労チーム🏹
→ シカやイノシシを狩ったり、川で釣りをしたりする人たち。
→ 武器は弓矢や落とし穴!
2.採集・クラフトチーム🌰
→ クルミやクリを拾ったり、土器を作ったりする人たち。
→ 道具は石器ナイフや土器!
「今日は鹿を仕留めたぞー!」という日もあれば、「クルミしか拾えなかった…」という日もある。
それでも大丈夫!三内丸山遺跡の人々は食料を保存する術を持っていたのです。
また、狩りで使う黒曜石の矢じりも、遠方(長野や北海道)から取り寄せていました。
お昼は豪華⁉︎ 縄文ランチタイム
獲物がとれた日は、早速調理!土器で煮込んで「縄文シチュー」を作ることもあったようです。
【縄文時代の食事の再現動画】
歴史飯hide様の動画を共有させていただきました。ありがとうございます!
もう「古代版キャンプ飯」ですね⁉︎
三内丸山遺跡では土偶や装飾品も出土しています。お昼の休憩時間には、土器アートを作る
縄文クリエイターたちがいたかも…?
午後:村づくり&物づくりタイム
午後は村の整備や道具づくりの時間。
・土器を焼いてみたり、
・住居を補修してみたり、
・狩猟の道具を作ったり…
夜:宴だ!祭りだ!
狩りが成功した日は、村で宴会!
巨大な焚き火を囲んで、肉広場や魚を焼きながらお酒(?)を楽しんだはずです。
三内丸山遺跡では、土偶や装飾品、巨大建築などが発見されています。
これは「精神文化が発達していた証拠」です。
つまり…
・「今日の狩りはどうだった?」
・「この土器のデザイン、いい感じじゃない?」
・「6本柱のてっぺん、もっとカッコ良くしようぜ!」
こんな縄文トークをしながら、夜が更けていったのでしょう。
グローバル経済の起源!? 三内丸山遺跡が語る驚きの交易ネットワーク
縄文人、意外とビジネスマインドがあった⁉︎
「縄文時代って、みんな自給自足で暮らしていたんでしょ?」
そう思っていたら、大間違い。
三内丸山遺跡で発掘された遺物を調べてみると、青森では産出されない 黒曜石(長野・北海道産) や
ヒスイ(新潟産) などが見つかっています。
…え? 縄文人、そんな遠くまで買い出しに行ってたの⁉︎
そう、彼らは 数百キロ先の土地と交易をしていた のです。
これってもう 「縄文版シルクロード」 じゃないですか⁉︎
縄文の物流ネットワーク、その実態とは?
現代のように道路も鉄道もない時代、どうやって遠くの土地とモノをやりとりしていたのか?
縄文人が使ったのは 「カヌー」 と 「人のつながり」
- 三内丸山遺跡は、近くに 大きな川 がある → これを使って移動!
- 陸路は徒歩、そして 途中の集落でリレー方式 にしてモノを運ぶ
- 何世代にもわたって、「モノと文化の橋渡し」をしていた可能性 もある
つまり、縄文時代には 交易ルートが確立されていた ということ!
カヌーと人の足を使いながら、全国規模の流通網を築いていたんですね。
交易されていたアイテムが面白い!
では、縄文人たちは具体的にどんなモノをやり取りしていたのか?
発掘された遺物をもとに、当時の人気アイテムをまとめてみました。
① 黒曜石(長野・北海道産)
・「縄文時代のナイフ」 として超人気!
・狩りや加工用の道具に欠かせないアイテムだった
・縄文のハンターたちは、この黒曜石を求めて遠くの地とつながっていた⁉︎
② ヒスイ(新潟産)
・高級アクセサリーとして流通!
・貝殻の装飾品と並ぶ 「縄文ジュエリー」
・縄文人にも「オシャレしたい!」という気持ちがあった⁉︎
③ 海産物や貝殻(太平洋側・日本海側)
・海がない地域への輸出品⁉︎
・内陸では手に入らない貝殻が発掘されている
・「海の幸セット」みたいな感じで交易されていたかも⁉︎
④ 塩(沿岸部→内陸部)
・現代でも重要な調味料、縄文人も愛用!
・体調管理や保存食にも役立つ
・「縄文版スパイス貿易」 だった可能性も?
こうしてみると、縄文人たちは 暮らしを豊かにするために、遠くの人々と交流していた ことがわかります。
縄文時代は、すでに「つながる経済」があった!
三内丸山遺跡から見えてくるのは、縄文人たちが ただ狩猟採集をしていたわけではない という事実です。
「このナイフ(黒曜石)、どこで手に入れたの?」
「このヒスイ、めっちゃキレイじゃん!」
「あの村の塩、うまいらしいよ!」
そんな会話をしながら、「良いもの」を求めて取引していたのかもしれません。
現代人と変わらない 「良いものを求める心」 が、すでに縄文時代にはあったのです。
そして、モノを運ぶだけでなく、交易を通じて「文化」も交換していた 可能性が高い。
現代のようにSNSやインターネットはなくても、縄文人は 「モノ」と「人のつながり」で、
情報をシェアし続けていた のかもしれません。
もしかすると、今の私たちがやっていることは、結局 「縄文時代の延長」 なのかもしれませんね。
縄文の摩天楼!? 謎の6本柱に隠された三内丸山遺跡のロマン
三内丸山遺跡では、集落跡から高さ10メートル以上の巨大な発掘立柱建物跡が発見されました。
とりあえず、その規模がヤバい。
・直径1メートル級の栗の木の柱が6本(どんだけデカいんだ!)
・柱の間隔がキレイに整列(縄文人、意外と建築センスあり⁉︎)
・周囲には通常の住居とは違う特殊な構造(重要施設だったのか⁉︎)

なぜ縄文人は、これほど巨大な建物を建てたのか?現代の研究者たちは、この建造物の目的についていくつかの説を出しています。
① 穀物貯蔵庫説
「高床式で食料を保存しているのでは?」
確かに、縄文人はクリやクルミを計画的に栽培していて保存が必要だった可能性はある。
でも、ちょっと待って。
高さ10メートルの倉庫って、必要か⁉︎
「お母さん、クリ取りに行ってきまーす!」→ハシゴ必須って、毎日が筋トレになってしまう。
② 祭祀用の神殿説
「これは宗教的な儀式に使われた建物だ!」
本来、縄文時代の人々は自然と共生する信仰を持っていた。
しかし、宗教施設にしてはやたらとデカすぎる。
③見張り台・灯台説
「村を見渡すための監視台だったのでは?」
高い位置から遠く見渡せるのは便利。
しかし、敵が攻めてくるような時代ではない。
つまり…監視台としては不要だった可能性が高い。
④それなら考えてみようじゃないか!
ここで、私からの大胆な考えを一つ。
もしかしたら、この6本柱は「縄文時代のシンボルタワー」だったのでは⁉︎
・「この村はこんなにスゴイんだぞ!」というステータスの象徴
・「夜になったら火を灯して、遠くからも見えるように」縄文の灯台
・「縄文の空に最も近い場所」天体観測のための展望台
三内丸山遺跡の人々が「高いものを作りたい!」というロマンを追い求めた結果、6本柱が生まれたと考えたほうがワクワクしませんか?
現代人だって、「高いビルを建てたい!」「大きなタワーがあったらカッコいいよね!」と考えるから、
縄文人にもそんな気持ちがあっても構わないでしょう!

まとめ:「ロマン」と「夢」が文明をつくる——三内丸山遺跡が語る未来への
ヒント
「なんのために?」の先にあるもの
三内丸山遺跡の6本柱を見て、多くの人がこう思います。
「これ、何のために建てたの?」
・倉庫? いや、デカすぎる。
・祭祀場? でも、なんでこんなに高いの?
・見張り台? そもそも敵、いなくない?
結局、確かな答えは今もわかっていません。
けれど、こうも考えられます。
「理由なんて、後からついてくるのでは?」
実はこの6本柱だけでなく、三内丸山遺跡には縄文人の夢とロマンが詰まった暮らしの痕跡が、あちこちに残されています。
縄文人たちの「夢」を感じる暮らし
「縄文時代=狩猟採集の時代」と思われがちですが、三内丸山遺跡の人々は、ただ生きるだけの
生活ではありませんでした。
こには、計画的で持続可能な社会が存在していたのです。
① 環境と共生した食生活
・縄文人は クリやクルミを栽培し、森を管理する暮らし をしていた。
・ただ狩猟採集をするのではなく、食料を安定的に確保する知恵があった。
・これはもう、「原始的な農業」と呼べるレベル⁉︎
② 交易でつながる広い世界
・青森では採れない 長野や北海道の黒曜石、新潟のヒスイ などが発掘されている。
・つまり、三内丸山遺跡は 「縄文時代の流通拠点」 だった可能性が高い。
・交易ネットワークを活用しながら、各地の特産品を交換していた⁉︎
③ 縄文の職人たち
・ただの土器ではなく、繊細な装飾が施された土偶やアクセサリー が多数発見。
・これは 「デザインやファッションを楽しむ文化」 があった証拠!
・つまり、縄文人は ただ生きるだけでなく、「美」や「創造性」も求めていた のでは?
こうしてみると、三内丸山遺跡の人々は、決して「原始的な生活」をしていたわけではなく、むしろ 「発展的な社会」を築いていた ことがわかります。
6本柱も、そんな「ロマン」から生まれた⁉︎
もし、三内丸山遺跡の縄文人に「なんで6本柱を建てたの?」と聞いたら、こう答えるかもしれません。
「なんか、カッコいいから!」
……もしくは、こう言うかも。
「ここからなら、村が一望できるぞ!」
「もっと遠くまで見えるようにしたかった!」
「これがあれば、俺たちの村はすごいって思われるだろ!」
どれも、「合理的な理由」とは少し違います。
でも、それが 「文化」や「象徴」になっていくのです。
三内丸山遺跡の人々は、ただ狩りをして生きるだけでなく、「自分たちの村をもっと発展させよう!」 という
夢を持っていたのではないでしょうか?
つまり、6本柱も 「俺たちの村を誇れるものにしよう!」 という思いから生まれたロマン建築だった
可能性があるのです。
「意味がない」ものが、未来をつくる
歴史は、「効率的なもの」だけでは発展しません。むしろ、「そんなの意味あるの?」という
ロマンこそが、新しい時代を切り拓いてきました。
- 「月に行くなんて、なんの意味が?」 → でも、人は行った。
- 「エッフェル塔って、ただの鉄の塊じゃ?」 → でも、今や世界の象徴。
- 「スマホでインターネット? 誰がそんなの使うの?」 → でも、今や生活必需品。
最初は「意味不明」なことが、時代を経て「意味あるもの」に変わっていく。
もしかすると、縄文人の6本柱もそうなのかもしれません。
「こんなものを作ったら、なんだかすごい!」
その感覚こそが、文明を動かし、未来へつながる力になるのです。
今の私たちも、
「意味なんてないかもしれないけど、なんかワクワクする!」
そう思えることを、もっと大切にしてもいいのかもしれません。
三内丸山遺跡の人々が築いた交易のネットワークや、創造性にあふれた暮らし、そしてあの6本柱。
それらすべてが、私たちに問いかけているようです。
「お前ら、ちゃんとロマンを追いかけてるか?」
…そう思うと、三内丸山遺跡は 過去の遺跡ではなく、未来へのメッセージ にも感じられませんか?

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