もし、あなたがこの砦の上に立っていたとしたら――
目の前の海に数百隻の艦船が押し寄せ、夜も昼も砲声が鳴り響く光景を想像できるでしょうか。
1565年、地中海の小さな島・マルタは歴史の巨大な渦の中心にありました。
オスマン帝国が送り込んだ軍勢は5万人とも言われ、対する守備側はわずか数千の兵と住民。
それでも老いた総長ラ・ヴァレットを中心に、人々は最後までこの砦に踏みとどまります。
この戦いにもし敗れていたら、地中海の勢力地図は大きく塗り替えられ、ヨーロッパの歴史も変わっていたかもしれません。でもこれは、ただの遠い昔の物語ではないのです。
瓦礫と石の壁に今も残る砲痕、海に沈んだ数え切れない命の記憶。
今回は、このマルタ攻防戦を歩きながら――
巨大帝国に挑んだ騎士たちの夏を、ひとつひとつ辿ってみたいと思います。
歴史の中の一瞬に、あなたも足を踏み入れてみませんか。
文明の境界に立つ小さな島
16世紀――世界は、かつてないほど広く、そして危うい場所になっていました。
東ではオスマン帝国が絶頂期を迎えています。
スレイマン大帝のもと、帝国はアジアから北アフリカまで版図を広げ、地中海の波も彼らのものと
化しつつありました。
ロードス島を奪われ、北アフリカの要衝を失い、ヨーロッパの国々はじわじわと包囲される恐怖に
怯えています。
西ではスペインとポルトガルが新大陸を求めて大海に乗り出し、
北では宗教改革がキリスト教世界を引き裂き、大航海と大戦争が同時に進行していました。

そんな中、地中海のほぼ中央に浮かぶ小さな島――マルタは、決して目立つ存在ではありませんでした。
けれど、ここを落とせばシチリア、ナポリ、さらにはローマが射程に入る。
キリスト教世界の防波堤を崩す最後の石が、この島だったのです。
地図を見れば一目でわかるその位置の重要性を、スレイマン大帝も、総長ラ・ヴァレット知っていました。
だからこそ、この島をめぐる戦いは、単なる一つの戦争ではなく――
「文明の境界線」をかけた攻防だったのです。
戦う修道士たち──聖ヨハネ騎士団
この戦いの主役となった聖ヨハネ騎士団は、ただの軍隊ではありませんでした。
彼らはもともと、エルサレムの巡礼者を助けるために設立された、貧しい病院の修道士たちでした。
しかし、十字軍の時代が訪れると、その修道士たちは剣を取ります。
やがて、巡礼を癒す手と、異教徒と戦う刃の、二つの顔を持つ存在になりました。
聖地エルサレムを追われた後も、彼らの漂流は終わりません。
キプロス島、そしてロードス島――
幾度も居場所を失いながらも、彼らは要塞を築き、海を守り続けてきました。
けれど1522年、ロードス島もオスマン帝国の圧倒的な軍勢の前に陥落します。
彼らは再び、行き場を失いました。
それから約8年。
ヨーロッパの君主たちは、この騎士団をどこに置くべきか、頭を悩ませていました。
放っておけば、戦力を失った流浪の戦士集団が秩序を乱すかもしれない。
けれど、彼らの勇敢さを味方につけることもできるかもしれない。
最終的に、この問題に決着をつけたのは神聖ローマ皇帝カール5世でした。
彼は南イタリアのシチリア王として、マルタ島を騎士団に与える決断を下します。
それは、地中海の真ん中に浮かぶ、荒れた小さな島。
水も乏しく、周辺にはオスマン帝国の脅威が漂っていました。
しかし、彼らは迷いませんでした。
「ならば、この地に我らの砦を築こう」
彼らにとってそれは、戦いの終わりではなく、新しい物語の始まりだったのです。
ジャン・ド・ラ・ヴァレット──最前線に立つ老騎士
マルタ攻防戦の総指揮をとったのは、聖ヨハネ騎士団の総長――ジャン・ド・ラ・ヴァレット。
フランスの南部、貴族の家に生まれた彼は、早くから騎士団に身を投じ、数え切れないほどの海戦を経験してきました。
騎士団の中では「生き残り」という言葉が当てはまる数少ない男。
長年にわたり地中海の最前線で戦い続け、囚われの身となったことすらあるという猛者です。
それでも信仰を捨てず、剣を捨てず、戦いを選び続けた――まさに「戦う修道士」の体現者。

ジャン・ド・ラ・ヴァレット(1495–1568) マルタ攻防戦を指揮した聖ヨハネ騎士団総長
ヴァレッタの中心で今も静かに島を見守っています
ラ・ヴァレットがマルタ攻防戦を迎えたとき、すでに70歳近い老騎士でした。
多くの者が「もはや隠居してよい年齢」と思ったでしょう。
しかし彼は、最前線から一歩も退きませんでした。
砲弾が降る中でも兵の前に立ち、砦の石壁を手で叩きながら、声を張り上げて鼓舞し続けたといいます。
ある日、敵の砲撃で負傷した少年兵が泣きながら「もう無理です」と訴えたとき、
ラ・ヴァレットはそっと肩に手を置き、こう囁いたと言われています。
「お前は退がってもいい。だが私には、それは許されぬ。」
威圧でも命令でもなく、己の背中で導く指揮官――
それが、ジャン・ド・ラ・ヴァレットという男でした。
そしてこの老騎士は、ただ戦いを乗り越えたわけではありません。
戦いのあと、瓦礫となったこの島に新しい街を築くという未来を託したのです。
それが、いま世界遺産にもなっているヴァレッタの町。
その名は、彼の名に由来しています。
決戦前夜──静けさの中に響く足音
1565年5月、東の水平線のかすみに、黒く連なる艦影が見え始めました。
それは、地中海の空気を一変させる合図でした。
オスマン帝国の大艦隊が、いよいよマルタに迫ってきたのです。
その数、およそ200隻。乗り込んでいる兵士は5万人とも言われています。
対する守備側は、聖ヨハネ騎士団の騎士約500名、傭兵、マルタの住民を合わせても6千に満たない状況でした。

島の空気は、緊張と祈りに包まれていました。
要塞の石壁では工兵たちが黙々と砲台を整え、鐘楼では神父が祈りの言葉を繰り返していました。
街の片隅では、母親たちが子どもを抱きしめながら、不安げに夜空を見上げていたといいます。
ラ・ヴァレット総長は、そんな島の様子を静かに見守っていました。
やがて兵たちを集め、こう語りかけます。
「敵は我々の命だけでなく、この島の自由、そして信仰そのものを奪おうとしている。
であれば、我々が退く場所など、この世界のどこにも存在しない」
その言葉に、誰もがうなずきました。
もちろん、怖くなかった者など一人もいなかったはずです。
それでもその夜、誰ひとりとして砦を離れようとはしませんでした。
深夜になると、波の音の向こうから、かすかに太鼓や船のきしむ音が聞こえてきたといいます。
それは、嵐の前に訪れる、静かすぎる風のようでした。
こうして、歴史に残る戦いの幕が、音もなく上がろうとしていたのです。
聖エルモ要塞の炎──最初の砦が燃えるまで
最初に狙われたのは、マルタ島北東に位置する聖エルモ要塞でした。
そこは三つの要塞の中で最も孤立し、最も落としやすいと見られていた場所です。
オスマン軍はこの小さな砦を数日で陥落させるつもりでいました。
しかし、その想定は大きく外れることになります。

かつて5万人の軍勢が襲いかかった聖エルモ要塞。今もマルタの海辺にその姿を残しています。
聖エルモ要塞を守っていたのは、わずか60名ほどの騎士と数百名の兵士たちでした。
彼らは、自分たちが「時間を稼ぐ盾」であることを理解していました。
この砦が一日でも長く持ちこたえれば、それだけ他の要塞の準備が整う。
そして、その間に救援の望みもつなぐことができる――そう信じていたのです。
オスマン軍は激しい砲撃と突撃を繰り返しました。
砦の壁は砲弾で崩れ、炎に包まれる夜もありました。
それでも守備隊は決して降伏せず、瓦礫の中で必死に応戦を続けます。
6月23日、要塞はついに陥落しました。
最後まで残った騎士たちは、剣を握ったまま戦い、全員が戦死したと伝えられています。
このわずか数百名の兵士たちは、一か月にわたりオスマン軍を足止めしました。
彼らの奮闘により、マルタの他の要塞の防備は整い、全体の戦局にも大きな影響を与えたのです。
彼らの犠牲は、ただの「敗北」ではありませんでした。
それは、この島の人々にとって、戦い抜くという意志の象徴となったのです。

砦を越えて──追い詰められるマルタの人々
聖エルモ要塞が陥落したことで、戦場はマルタ島の中枢部――聖アンジェロ要塞とビルグ地区へと移りました。
ここには騎士団本部が置かれ、マルタの人々の生活も集中していたため、防衛線が崩れれば島全体が終わるという重大な局面に入ったのです。

最後の砦、聖アンジェロ要塞──あらゆる絶望を跳ね返した、静かなる勇気の象徴
「この砦が落ちれば、全てが終わる」騎士たちはそう信じて、ここに立ち続けた
オスマン軍は、すでに大きな損耗を被っていましたが、それでも攻撃の手を緩めることはありませんでした。
巨大な砲で壁を破壊し、トンネルを掘って爆薬で地中から崩し、昼夜を問わず突撃を繰り返します。
一方の守備側は、瓦礫と化した砦の上に土嚢を積み、倒れた仲間の装備を拾い、息をつく暇もなく応戦を続けました。
戦いはすでに、兵士だけのものではなくなっていました。
島の住民たちも、食料や水を運び、負傷兵の手当てをし、ときに火薬を背負って戦場へ走りました。
少年も、老人も、そして女性も、皆がこの島の一部として戦っていたのです。
その中で、ラ・ヴァレット総長はひたすら前線を巡り、剣を携えながら兵を励まし続けました。
彼自身も肩に銃弾を受ける重傷を負いながら、指揮を離れることはありませんでした。

「我々が退けば、この海の向こうにあるものすべてが危機にさらされる」
その言葉は、兵士たちだけでなく、市民の心にも深く刻まれていきました。
このころには、オスマン軍の内部でも焦りと疲労が広がっていたといわれています。
それでも戦いは、まだ終わる気配を見せてはいませんでした。
援軍の到着──反転攻勢と勝利の兆し
戦いが始まってから、すでに三か月が過ぎていました。
マルタ島の空気は、炎と血と祈りに染まり、島中が疲労と喪失の中にありました。
そんな中、ついに転機が訪れます。
9月7日、スペイン・シチリア連合軍からの援軍がマルタ島に上陸したのです。
その数はおよそ8,000。決して圧倒的な数ではありませんでしたが、長く孤立していた守備側にとっては、まさに希望そのものでした。

援軍の登場により、守備側の士気は一気に高まりました。
これまで砦を守るだけだった騎士団と兵士たちは、ついに反撃に転じます。
守勢だった戦局は、少しずつ逆の流れを見せ始めました。
オスマン軍の内部では、補給線が伸びきり、兵たちの間に疲労と動揺が広がっていました。
それでも指揮官たちは撤退を拒み続け、戦いはなおも続けられます。
しかし、守備側の粘りと反撃により、ついにはオスマン軍の陣地にも混乱が生じ始めました。
そして9月8日、ついにオスマン軍は撤退を開始します。
大軍をもってしても、マルタの砦を完全に制圧することはできなかったのです。
戦いは、ようやく終わりました。
生き残った者たちは、廃墟と化した砦の中で、互いの無事を確かめ合い、亡くなった仲間たちの名前を静かに呼びました。

この勝利は、単なる戦術的な勝ちではありませんでした。
それは数で劣る者たちが、信念と結束によって巨大な力に抗い、押し返したという精神の勝利だったのです。
戦いの果てに──老騎士が築いた未来
マルタの戦いは終わりました。
しかし、その余波は地中海の波を越え、ヨーロッパ全土へと広がっていきました。
この勝利は、ただの島ひとつを守ったという話ではありませんでした。
それは「無敵」と恐れられていたオスマン帝国の膨張を、初めて食い止めた防衛戦として、ヨーロッパ諸国に勇気と希望を与えたのです。
この戦いののち、ヨーロッパ各国は改めて海の要塞化と軍備の強化を急ぎ、キリスト教世界とイスラム世界の力の均衡にも大きな転換点が訪れました。
そして、戦いの主役であった老騎士――ジャン・ド・ラ・ヴァレットは、ただの勝者では終わりませんでした。
瓦礫と化したマルタの地に、彼は新たな決意を抱きます。
「この地に、新しい街をつくろう。それは、死者たちの名を永遠に残す場所になる」
そうして築かれたのが、現在の首都ヴァレッタです。
街の名は彼の名前にちなんで名づけられました。
碁盤の目のように整備された石畳の道、強固な城壁、風を受けて開かれるバルコニーの数々――
それは、剣と祈りの町であり、傷跡を誇りに変えた都市でした。

マルタ共和国の首都・バレッタ──ジャン・ド・ラ・ヴァレットの名を冠した石の都市。
その路地には、今も歴史の足音が響いています。
ラ・ヴァレットは、その建設を見届けることなく息を引き取りますが、彼の遺体は、今もこの町の地下に
眠っています。
かつて命を懸けて守ったこの地の土の中で、静かに時を超えながら。
あの夏、騎士たちが見た空を追いかけて
マルタ攻防戦は、ひとつの島をめぐる戦いにとどまりませんでした。
それは、巨大な帝国の影に対して、人々が信念と勇気で立ち向かった歴史の一章でした。
老いた騎士ラ・ヴァレットの背中に託されたもの。
城壁の上で祈りながら矢弾を運んだ市民たちの想い。
そして、地中海に浮かぶあの小さな島が、ヨーロッパの未来を変えたという事実。
歴史の教科書には、たった数行しか載っていないかもしれません。
けれど、その一行の裏には、幾千もの命と、声と、物語があったのです。
今、私たちがヴァレッタの街を歩くとき、そこには剣を握った騎士の影こそ見えませんが、
彼らが残した石畳の上に、確かに時の記憶は刻まれています。

いつかその地を本当に訪れる日が来るかもしれません。
あるいは、訪れなくとも、想像力の翼を広げて、この歴史の中を歩いてみるだけで――
それは、ほんの少しだけ、世界が広がる体験になるのではないでしょうか。

コメント