イスタンブールという街には、どこか不思議なところがあります。
ヨーロッパとアジアのあいだにあり、海峡を挟んで二つの大陸にまたがる街。
けれど、この場所が特別なのは、地理だけではありません。
ここはかつてコンスタンティノープルと呼ばれ、ローマ帝国、東ローマ帝国、そしてオスマン帝国と、
いくつもの時代の中心になってきました。
街の名前が変わり、支配する国が変わっても、この場所そのものが歴史の表舞台から消えることはありませんでした。
そして、その節目にはいつも、街の姿を大きく変えた人物たちがいました。
今回は、そんな人々をたどりながら、コンスタンティノープルから現在のイスタンブールへと続く時間を、
少しだけさかのぼってみます。
なぜ、この街は世界の中心になったのか
イスタンブールの歴史を見ていると、ひとつ気になることがあります。
どうして、こんなに多くの国や皇帝たちが、この街を欲しがったのでしょう。
理由は、場所がとてもよかったからです。
イスタンブールは、ヨーロッパとアジアの境目にあります。
人が東へ行くにも、西へ行くにも通りやすい。
さらに近くには海峡があり、船にとっても大切な通り道でした。
つまり、人も物も集まりやすい場所だったのです。
それだけではありません。
三方を海に囲まれ、陸側には強固な城壁を築くことができたため、
敵から攻められにくいという強みもありました。

画像:NASA / Astronaut photograph ISS008-E-21752(Public Domain)/Wikimedia Commons
人や物が集まる。
船も通る。
しかも守りやすい。
都を置くには、かなり都合のいい場所です。
今の感覚でいえば、交通の便がよく、商売もしやすく、防犯面まで強い土地だった、
と考えると少しわかりやすいかもしれません。
そんな場所を見て、「ここを帝国の中心にしよう」と考えた人物がいました。
ローマ皇帝、コンスタンティヌス大帝です。
ここから、この街は世界史の大舞台へと入っていきます。
コンスタンティヌス大帝が、新しい都をつくった
4世紀のはじめ、この場所に目をつけたのが、ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝でした。
当時ここには、すでにビュザンティオンという街がありました。
コンスタンティヌスは、その街を大きく作り替え、330年に新しい都として整えます。
ローマ帝国の都といえば、もちろんローマ。
ところが皇帝は、そこから遠く離れた東の街に、新しい中心をつくろうとしたのです。
場所がよかったことに加えて、帝国の東側をまとめるにも都合がよかったと考えられています。

画像:Dmitry A. Mottl / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
街には宮殿や広場、競技場などが整えられ、人も集められました。
小さな地方都市だったビュザンティオンは、皇帝の手によって、
帝国の中心にふさわしい大都市へと姿を変えていきます。
そしてこの街は、やがて皇帝の名前にちなんで「コンスタンティノープル」と呼ばれるようになりました。
自分の名前が街の名前になる。
なかなかできることではありません。
もっとも、コンスタンティヌス本人としては、それくらい大きな都をつくったつもりだったのかもしれません。
こうしてコンスタンティノープルは、その後1000年以上にわたって、世界史の重要な舞台になっていきます。
ユスティニアヌス帝が残した、巨大なアヤソフィア
コンスタンティノープルが帝国の都として栄えるなか、6世紀には、街を象徴する巨大な建物がつくられました。
アヤソフィアです。
建設を命じたのは、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世。
現在の建物は537年に完成しました。
驚くのは、その大きさです。
巨大なドームを持つ建物を、今から1500年近く前につくってしまったのです。
もちろん、当時の人たちに現代のクレーンや重機があったわけではありません。
それでも、アヤソフィアは当時としては桁外れの規模を持つ大聖堂として完成しました。

画像:写真AC
ユスティニアヌス帝にとって、これは単なる教会ではありませんでした。
帝国の力と豊かさを示す、いわばコンスタンティノープルの“顔”でもあったのです。
その後、街を支配する国や宗教が変わるたびに、アヤソフィアの役割も変わっていきました。
それでも建物そのものは残り続けました。
皇帝がつくらせた巨大な聖堂が、1500年近くたった今もイスタンブールに立っている。
そう考えると、この街では歴史が「昔の話」ではなく、今も目の前に残っていることがよくわかります。
難攻不落の街に、21歳のスルタンがやってきた
コンスタンティノープルは、長いあいだ「難攻不落の街」として知られていました。
街を囲む巨大な城壁があり、海側にも守りがある。
何度も攻められながら、それでも生き残ってきたのです。
ところが1453年、その街の前に若いスルタンが現れます。
オスマン帝国のメフメト2世。
まだ21歳でした。
メフメト2世は、巨大な大砲を用意し、城壁を何度も攻撃します。
さらに有名なのが、船を陸の上から運んだ作戦です。
コンスタンティノープル側は、金角湾の入口に大きな鎖を張り、
敵の船が入ってこられないようにしていました。

画像:Mustafa-trit20 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
そこでメフメト2世は、
「海から入れないなら、陸を通せばいい」
と考えます。
そして本当に船を陸上へ引き上げ、丘を越えて金角湾へ運び入れました。
普通なら、海に浮かべるはずの船が山を越えてくる。
守る側からすれば、かなり驚いたはずです。
こうした攻撃の末、1453年5月29日、コンスタンティノープルはついに陥落しました。
1000年以上にわたって東ローマ帝国の中心だった街は、ここで大きな転換点を迎えます。
ただし、メフメト2世の目的は、この街を壊して終わることではありませんでした。
むしろ彼は、ここを自分たちの帝国の中心にしようと考えていたのです。
征服した街を、メフメト2世は壊さなかった
コンスタンティノープルを手に入れたメフメト2世は、その街をただの戦利品にはしませんでした。
むしろ、オスマン帝国の新しい中心として立て直そうとします。
戦争で人口が減っていた街には、さまざまな地域から人々を移り住ませました。
商人や職人を集め、市場を整え、街に再び人の流れを戻していきます。
アヤソフィアはモスクへと変わりましたが、建物そのものは壊されず、
その後も街を象徴する存在として残りました。

戦いに勝ったあと、彼が目指したのは廃墟ではなく、帝国の新しい都でした。
画像:Gentile Bellini (attributed) / Wikimedia Commons / Public Domain
メフメト2世が欲しかったのは、廃墟になった街ではなく、栄える都だったのでしょう。
征服した側が変われば、街の姿も変わります。
けれど、それまで積み重なってきたものをすべて消して、最初から作り直したわけではありませんでした。
古いコンスタンティノープルの上に、今度はオスマン帝国の街が少しずつ重なっていきます。
街の主役は変わっても、街そのものはそこに残る。
現在のイスタンブールへと続く姿が、ここからまた形づくられていきました。
スレイマン大帝の時代、街はオスマン帝国の顔になった
メフメト2世が手に入れた街は、その後、少しずつオスマン帝国の都らしい姿に変わっていきました。
そして、その華やかさが大きく花開いたのが、スレイマン大帝の時代です。
このころの街には、人も物もどんどん集まりました。
市場はにぎわい、モスクが建ち、街の景色も少しずつ変わっていきます。
その景色づくりに大きく関わったのが、建築家ミマール・スィナンでした。
彼が手がけた建物のひとつが、スレイマニエ・モスクです。

大きなドームとミナレットが、今もイスタンブールらしい景色の一部になっています。
画像:Julian Lupyan / Wikimedia Commons / CC0 1.0
大きなドームのまわりに、細いミナレットが空へ伸びる。
いまイスタンブールの写真を見たときに、「ああ、この街らしい」と感じる景色の一部は、
こうした時代につくられていきました。
コンスタンティヌス大帝のころとは、もうずいぶん違う街です。
それでも、場所は同じ。
昔の建物をすべて消して新しくしたのではなく、その上にまた新しい時代が重なっていきました。
こうしてコンスタンティノープルは、ローマの都だったころの面影を残しながら、
今度はオスマン帝国を代表する街になっていったのです。
名前が変わっても、街はここにあった
コンスタンティヌス大帝が新しい都をつくり、ユスティニアヌス帝がアヤソフィアを残し、
メフメト2世が街を征服し、スレイマン大帝の時代にはオスマン帝国らしい景色が広がっていきました。
こうして振り返ると、イスタンブールは何度も大きく姿を変えてきた街です。
支配する国も変わりました。
街の役割も変わりました。
そして、呼ばれ方も少しずつ変わっていきました。

今もフェリーや船が行き交う、イスタンブールの大切な水の道です。
画像:Acediscovery / Wikimedia Commons / CC BY 4.0
それでも、街そのものが消えてしまったわけではありません。
古い建物のそばに新しい建物がつくられ、その上にまた別の時代が重なっていく。
アヤソフィアを見れば東ローマ帝国の時代があり、モスクを見ればオスマン帝国の時代がある。
現在のイスタンブールには、そうした長い時間が同じ街の中に残っています。
名前が変わっても、主役が変わっても、街はここにあった。
もしかするとイスタンブールの面白さは、「何が変わったか」だけではなく、
「それでも何が残ったのか」を見つけられるところにあるのかもしれません。


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